【豆まき】鬼ではなく「神様」の仮装をしていた?!節分の歴史と由来
突然ですがみなさん、今年の2月3日は何の日だかわかりますか?
正解は、「節分」。
お子さんがいない方だと、
「豆まきなんてここしばらくやっていないから、節分の存在をすっかり忘れていた」なんて方も多いかもしれませんね。
節分は、邪気が入りやすいとされる季節の分かれ目の時期に行う、「邪気払い」の行事。
日本人にはなじみ深いイベントではありますが、意外とその成り立ちや由来について知っている方は少ないのでは?
豆まきをするか否かはともかくとして、節分の由来や豆知識を知ると、「こんな意味があったんだ!」と、意外な発見がありますよ。
本日はそんな節分の歴史について詳しくお話ししたいと思います。
節分っていつ?
節分と言うと、『毎年2月3日』だと思っている方も多いかもしれませんが、実はそれは間違い!
正しい節分の日は、『立春の前日』と覚えましょう。
立春の日にちは、年によって異なります。
一般的な暦とは異なる計算方法によって決められるものなので、年により日にちにズレが生じます。
たしかに、ここ30年くらいはずっと2月4日が立春だったため、多くの方は節分は2月3日だと勘違いしています。
しかし、毎年そうというわけではないのでご注意を。
実際、2021年は2月3日が立春なので、節分は2月2日になります。
節分ってどんなもの?
日にちがわかったところで、節分がそもそもどんなものなのかについてお話ししたいと思います。
節分とは、『季節を分ける』ことから節分といいます。
いまでは立春の前日(2月2日~2月4日頃)だけをさしますが、季節の変わる「立春(りっしゅん)」「立夏(りっか)」「立秋(りっしゅう)」「立冬(りっとう)」の前日は、いずれも節分です。
そう、本来、節分は年に4回あったのです。
中でも立春の節分は旧暦の大晦日。
現在の大晦日と同じく、新年を迎えるための大切な日だとして重要視されていました。
そのため、立春の節分だけが現代にも受け継がれるほど私たちの生活に定着したのです。
節分は中国の「大儺(たいな)」が発祥?
節分と言うと、切っても切り離せないのが「豆まき」ですよね。
誰しも一度は学校や家庭で豆まきをした経験があるのではないでしょうか?
でも、どうして節分に豆まきが行われるようになったのかをご存知ですか?
今回はその由来についてもお話ししたいと思います。
古くから日本では、季節の変わり目である節分には邪気(鬼)が生じると考えられていて、
それを追い払うための行事が行われていました。
これは中国から伝えられた「大儺(たいだ、たいな)」という儀式がもとになっています。
古来中国では、節分の日になると、方相氏(ほうそうし)という中国の神様に扮した人が
・「4つの黄金の目玉がついたお面」をかぶり、
・「黒と赤の着物」を身に着け、
・「クマの毛皮」をかぶり、
・「矛と盾」を手に持ち、
大勢の部下を引き連れて宮中の各部屋を回って目に見えない邪気(鬼)を払いました。
当時は、この方相氏(ほうそうし)を演じるためだけの役職があったというのですから、驚きです。
これが大儺(たいだ、たいな)と呼ばれる儀式。
今の節分とはだいぶ雰囲気が違いますよね。
当時はまだ「節分に豆をまく」という風習はありませんでした。
また、現代の節分では「鬼の役」に変装しますが、
古代では、鬼を追い払う「神様役」に変装するというのが大きな違いです。
飛鳥時代に「大儺(たいな)」が日本に伝わる
この大儺(たいだ、たいな)が日本に伝来したのは、飛鳥時代だと考えられています。
日本では、「追儺(ついな)」という名前で広まり、宮廷の年中行事となっていました。
当時は中国の原型をそのまま取り入れており、神様である方相氏(ほうそうし)に扮した人物が部下たちと一緒に宮廷内を回り、掛け声をあげながら邪気(鬼)をはらっていきました。
日本ではこのとき、貴族たちが弓を払ったり、振り太鼓(でんでん太鼓)で音をたてたりして、方相氏(ほうそうし)を応援しました。
「神様」が「鬼」になった?!
このように、当時は方相氏(ほうそうし)という神様役に扮するというのが一般的でしたが、あるときから不思議な現象が起こります。
それは、邪気(鬼)を払ってくれる正義の神様であるはずの方相氏(ほうそうし)が、
いつのときからか「鬼」と見立てられるようになったのです。
思えば、方相氏(ほうそうし)の姿は、
・「4つの黄金の目玉がついたお面」
・「黒と赤の着物」
・「クマの毛皮」
・「矛と盾」
というかなり奇抜な格好。
その怖い姿は、神様と言うよりも「鬼そのもの」に見えてしまったのも無理はないかもしれません。
また、目に見えない鬼を追い払うよりも、鬼を「可視化」したほうが分かりやすかったのかもしれませんね。
そうして、鬼を追い払う側だった方相氏(ほうそうし)が、
いつからか鬼役に変わり、方相氏(ほうそうし)を追い払う儀式に変化していったのです。
追儺に豆まきの要素が加わる
しかし、当初の追儺(ついな)ではまだ「豆をまく」という要素はありませんでした。
追儺(ついな)に豆まきが加わったのは、しばらく経ってから。
豆まきのもととなったのは、「節分違え(せつぶんたがえ)」と呼ばれる、節分の日のもうひとつの行事です。
これは平安時代の風習で、節分の日に「吉の方角(恵方)」と「凶の方角」を占い、吉と出た方角にある家やお寺に1泊するというものです。こうすることで「厄払いができる」と信じられていました。
しかし、わざわざ吉と出た方角(恵方)に出向いて宿泊するのは、なかなか面倒なもの。
そのため、しばらくするとこの風習が簡略化されます。
わざわざ恵方に出向いて宿泊するのではなく、
家の中の恵方にあたる部屋に行くだけで良い、という非常にシンプルな形になりました。
そして、その部屋で豆をまくことが、厄払いになるとされました。
(豆には古くから邪気を追い払う霊力があると考えられていたため)
これが、「節分違え(せつぶんたがえ)」という行事です。
そしてこの、「節分違え(せつぶんたがえ)」と「追儺(ついな)」が、次第に融合するようになっていきます。
鬼の格好をした方相氏(ほうそうし)を追い払う儀式である「追儺(ついな)」。
恵方の部屋で豆をまく儀式である「節分違え(せつぶんたがえ)」。
これらが混ざったことで、「節分の日に、鬼に向かって豆をまいて退散させる」という、現代の豆まきの形になったのです。
そしていつからか、「鬼は外、福は内!」というお決まりのセリフが唱えられるようになり、南北朝時代(1300年代)にはすでに、貴族も一般庶民もこの行事を行うようになっていたと言われています。
恵方巻きはもっと最近?
ちなみに、節分と言えば「恵方巻き」も有名ですが、
これが生まれたのはかなり最近だということをご存知でしたか?
恵方巻きのルーツは、江戸時代~明治時代のこと。
大阪の花街で、節分の祝いや商売繁盛を願っておこなわれるようになりました。
また、名前も恵方巻きとは呼ばれておらず、「丸かぶり寿司」「太巻き寿司」等と呼ばれていました。
これが全国に広まるようになったのは、なんと1989年のこと。
とあるコンビニチェーンが「恵方巻き」という名前をつけて販売を始めたところ、またたく間に恵方巻きブームは全国に広がります。
そして、今や節分の時期になるとあらゆるスーパーやコンビニで恵方巻きが売られるようになったのです。
恵方巻きはもっと歴史のある風習だと思っていた方も多いのではないでしょうか?
まとめ
本日は「節分」の歴史やルーツについてお話ししました。
普段は気にもとめない日本の行事も、その由来を調べてみるととても興味深いものです。
また、時代によって風習は変化するということがよくわかりますね。
2020年の節分、あなたはどんな風にお祝いしますか?
<参考URL>
・本の万華鏡 https://www.ndl.go.jp/kaleido/entry/21/1.html
・中国語スクリプト http://chugokugo-script.net/
・お話歳時記 http://www.pleasuremind.jp/COLUMN/COLUM012A02.html
・+雑学 https://plustrivia.com/events/134/#i-6
・ぐるなび https://r.gnavi.co.jp/food/sushi/ehoumaki/ehoumaki_04.html
最終更新日: